2DCGデザイナーなら知っておきたい2DCGゲームの歴史
テレビゲームが83年ごろを境に一般家庭に浸透してくると「どんな人が作っているのか?」「どうやって作られているのか?」など、開発に対する興味を持つ人がだんだんと増えていきました。その中で人々の興味を集めたひとつが当時のゲームで基本的な2DCGの描画手法であった「ドット絵」でした。ドット絵とは、点で描かれた「点絵」のことで、2DCGの歴史を語る上で不可欠な技術です。
ドット絵とは
主としてコンピュータ上における画像の表現方法・作成方法の一形態であり、表層的には通常の目視でピクセルが判別できる程度に解像度が低いビットマップ画像と捉えることができる。
参照:Wikipedia(2017.8.22時点)
このドット絵ですが、簡素な見た目とは裏腹に、実は極めて技術力の高い仕事を要求される2DCG業務です。テレビゲームのソフトウェア開発という新しい職業の現場で必要とされる2DCGデザイナーの需要拡大とともに、「ドッター」とも呼ばれるようになった2DCG専門職の存在が広く認知されるきっかけであったともいえるでしょう。実際、黎明期であった当時のゲームソフトで使われたCG画像素材のほとんどが2DCGであり、またそのほぼすべてがドット絵によるものでした。
今回は、そのドット絵を中心に、2DCGゲームの歴史と2DCGデザイナーが関わったポイントをご紹介していきます。
目次
[第1章]
2DCG初期の歴史 - ファミコンの登場を皮切りに爆発的ヒット
1983年、任天堂のファミリーコンピュータ(ファミコン)が発売され歴史的なヒットを飛ばしました。そしてゲームソフト開発にも2DCGデザイナーが専門職として必要とされ始めてきました。明確な資料はありませんが「ゲーム・グラフィック」という職業が一般的に知られるようになったのはファミコンがヒットしてゲームソフト開発の需要が高まり、ゲームの絵描き担当である2DCGデザイナーの需要も同じく高まったということが理由の一つだと思います。それまではゲームで使われる2DCG画像も、芸術や研究分野でのコンピュータ・グラフィックの一部というイメージであり、あえてそれらを分けて考えることはありませんでした。そもそも当時の2DCGは手間もお金もかかるので、とても一般人が気軽に挑戦することができるものではありませんでした。
趣味でパソコンを個人購入する人もいましたが、それらのほとんどは「オフコン(オフィス・コンピュータの略称)」と呼ばれるもので、高価な上にそもそもオフィスでの事務仕事を目的としたものだったので、美しい2DCGが描けるようなグラフィック能力は必要とされていない製品でした。例外として『Commodore64』(1982年発売)やそれに続く『Amiga』シリーズ(初代機は1985年発売)などの比較的安価でグラフィック性能に優れた製品もありましたが、残念ながら日本での知名度はあまり高くはなかったようです。実際、個人購入する人の多くは、プログラム方面やゲーム目的でした。
初期ゲーム機のドット解像度について
前述しましたように、当時のテレビゲームで使われる2DCGはそのほとんどがドット絵です。ファミコンの画面解像度は、256x240ドット(一説には256x224ドットとも言われています)ですが、単純に4:3のテレビ画面を、256x240ドットの格子で分割したと思ってもらえると良いでしょう。その各ドットを色で塗りつぶしてゲームの画面を表現しています。具体例をあげれば、任天堂『スーパーマリオブラザーズ』のマリオの通常時(小さいとき)の画像は、16x16ドットの範囲に色の点で描画したものです。
ドットの色にじみを利用した当時の2DCGデザイナーの知恵
ゲーム画面を表示する当時の一般的な家庭用テレビはブラウン管でしたが、ブラウン管は表示にボケたような独特の「色にじみ」が生じ(とくに赤色)、それはドット絵にも同様に起こります。ですのでシャープな画像、緻密な画像などは画面にじみのために画像がつぶれてしまうといった事もおこりました。
しかし2DCGデザイナーはそれを逆手にとった表現を編み出してしまいます。その一つに「攻撃を受けて人物がケガをした表現」がありますが、キャラクタの頭部に無意味に思える赤い1ドットを置きます。それをテレビ画面で見ると頭から血がにじみ出たように見えました。
2017年現在のゲーム機に比べれば、色の数や表現方法にかなりの機能的制限がありましたが、むしろ様々な工夫を懲らしていろんな2DCGでの表現を可能にしていくという、これも開発における歴史のひとつです。
家庭用のテレビを媒体とした家庭用(コンシューマ)ゲーム機とは別に、業務用ゲーム(アーケードゲーム)機の存在があります。業務用の多くのタイトルがファミコンでも遊べるように「移植」されたのも家庭用ゲーム機のヒット要因のひとつでしょう。
「移植」というと、家庭用ゲーム機内で業務用のゲームがそのまま動いているイメージがあるかも知れませんが、当時は家庭用ゲーム機の方がはるかに非力なこともあり、そのゲーム機に合わせて作り直していました。無論、まったく同じものを作ることは難しいので、イメージを大事にしながら様々な表現の工夫が必要になります。その業務用ゲーム開発での経験や知識、作業工程は可能な限りファミコンのゲームソフト開発現場にも受け継がれています。
ドットの形状について
ここでドット絵を構成する最小単位のドット(点)について説明しておきましょう。例えばファミコンのドットは正方形ではありませんでした。若干横方向に伸びる傾向がありました。つまりファミコンで正方形を表現しようすると、若干横方向につぶれた四角に描いておかないと、テレビ画面に表示させたときに正方形になりません。これはファミコンのドット絵を描く上で2DCGデザイナー必須の技術ともいえます。
[第2章]
2DCG初期の歴史 - ゲームボーイの登場〜モノクロ液晶での表現
1989年、任天堂からゲームボーイが発売され、カセット式の家庭用ゲーム機は家から持ち出して外でも遊べる小型携帯機の普及時代を歴史に刻みます。実はゲームボーイはファミコンとも肩を並べられるほどの処理能力を持っていましたが、肝心の画面はモノクロ(3諧調濃度)の液晶画面で今の携帯機に比べ視認性も良くはなく、しかも初代機はバックライトすら付いておらず、明るい場所でしかゲームすることができませんでした。
当時はファミコンソフト『スーパーマリオブラザーズ』のヒットもあり、横スクロールのアスレチック型アクションゲーム全盛の時代です。ゲームボーイにも様々なアスレチック・アクションゲームが発売されましたが、視認性を維持しながらのキャラクター表現はなかなかの難題でした。色パレットの1色を犠牲にしてPC(プレイヤーキャラクター)の周りを縁取りしたりというアイデアもありましたが決定的な解決には至りませんでした。また、その残像を逆手に取った表現などもいろいろ工夫され、可能性という意味からも面白いゲーム機でした。
[第3章]
2DCG中期の歴史 - スーパーファミコン登場〜表現力はさらに向上
そして1990年にスーパーファミコン(スーファミ)が登場すると表現力はさらに広がります。前機種であるファミコンの画面解像度は52色から4色4パレットを設定して使用していましたが、スーパーファミコンでは最大で512x478、色数は32,768色(そこから16色8パレットを設定して使用)になりました。
BGの拡大縮小、回転、モザイクなどのエフェクト表現など、ここまでの家庭用ゲーム機の歴史を振り返ってもなかなかに贅沢な機能が多く追加されたのですが、それらはプログラマ側で行われるため、特別に2DCGデザイナーに求められる追加の技術はそれほどありませんでした。ファミコン時代に培われた技術の多くが流用できたからなのかも知れません。
[第4章]
2DCG後期の歴史 - 次世代機の登場〜3DCGゲーム全盛期
当時、「次世代機」と呼ばれたプレイステーションやセガサターンの登場によって、家庭用ゲームのタイトルでもだんだんと3DCGを採用したゲームが増えてきました。これら次世代機の発売当初は、それによって2DCG(ドット絵)ゲームがほとんどなくなってしまうかのような噂もありましたが、実際にはそんなことはありませんでした。
そもそも3DCGゲームの人気は、ナムコ『リッジレーサー』やセガ『バーチャファイター』などの業務用(アーケードゲーム)機から始まりました。業務用機で人気だったタイトルは次世代機にも移植されましたが、その一方で、人気のある2DCGゲームもまだ多くありました。
また、よく「2D周り」等と呼ばれるHPゲージや各種数値などのコンソール部分は基本的に2DCGの技術で描画されていましたので、3DCGのゲームであっても2DCGデザイナーは必要でした。とはいえ、ドット絵の需要はだんだんと縮小の傾向にありました。
[第5章]
2DCG後期の歴史 - 携帯電話ゲームの登場〜iモードゲーム
さらに時は流れて1999年。この年、NTTドコモからiモードのサービスが開始されました。その様々なサービス内容のひとつにゲームがあり、これが携帯電話を媒体としたゲームを広げる大きなきっかけになりました。
先の3DCG需要拡大が引き起こした問題
大きな問題も起こりました。iモードのゲームは当時の携帯電話の描画性能から考えてもドット絵しか使うことが出来なかったのですが、家庭用ゲーム機が高性能化して3DCGの需要が高まり、ドット絵の需要が少なくなってくると、これまでドット絵を専門としていた2DCGデザイナーは3DCGなど次の技術の習得や移行が進み、結果としてドット絵に秀でた2DCGデザイナーを確保することが困難になっていました。
また、1998年にはゲームボーイカラー、2001年にはゲームボーイアドバンスが発売されており、優秀な2DCGデザイナーはほとんどそちらへ移行していました。また携帯電話の貧弱な描画能力に2DCGデザイナーが業務としてあまり興味を持たなかったというのも理由の一つかと思いますが、なによりもiモードのゲームはまったく新しいジャンルだったので、2DCGデザイナー需要と供給のバランスが大きく崩れてしまいました。
すでにこの頃、ファミコン時代のようなドット絵のみでキャラクターを表現するようなゲームを実務で経験したことがないという新世代の2DCGデザイナーはあまり珍しい存在ではありませんでした。ドット絵の業務そのものが減っていたということもありますが、ドット絵という技術にあまり興味を示さなかった若手2DCGデザイナーも多かったのです。
それは家庭用ゲーム機が飛躍的に高性能化したように、そのうちに携帯電話ゲームも(もちろんゲームボーイのような携帯ゲーム機も)機能強化されて普通に3DCGが描画出来るようになり、ドット絵しか対応しない時代は早々に終わるだろうと誰もが考えていたからです。実際、2003年には携帯電話上でかつての業務用レースゲーム『リッジレーサー』が動くようになっていました。
[第6章]
2DCGの現在 - スマホゲーム全盛の時代
現在のスマーフォンを媒体にしたゲームですが、スマホ本体が飛躍的な機能進化を遂げたおかげで、(1999年頃に誰もが予想した通りに)3DCGも難なく表示できるグラフィック能力を持つに至りました。
2DCGの活躍の場はほとんどなくなったかと思われていましたが、突然「カード画」の需要が高まり、2DCG分野が再注目されることとなりました。スマホの収集系カードゲームによるブームの恩恵です。たちまちカード画を描く2DCGデザイナー不足を引き起こしました。
今現在でもカード画の2DCGデザイナー(俗に「絵師」呼ばれています)の人材需要は依然高いままです。現代のスマホの高解像度画面はドット絵の技術はそれほど必要としなくなってきました。それでもこれほどまでに2DCG需要が復権するとは誰も思いもしなかったでしょう。
まとめ
2DCGデザイナーがどのように時代の変化を受けながら今日に至ったのか、お分かりいただけたでしょうか。技術力の進化に伴い、山あり谷ありの道を2DCGデザイナーは歩んでいきました。2DCGの歴史を知る事は、2DCGデザイナーとしての技術を各々が掘り下げていく上での必須事項ですし、3DCGデザイナーやWebデザイナーでも、1ドット単位で素材を作成されていますから、ドットを用いて表現する事の難しさ、奥深さを知れたのではないかと思います。是非、これを期に理解を深めていきましょう。
この記事を書いた人
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